武庫川女子大学
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武庫川学院80周年

iPadを全生徒に――ICT化進める附属中高[2018/05/24更新]

 「iPadを出して、ロイロノートを起動させてください」。武庫川女子大学附属中学校で、3年生の国語の授業を受け持つ大ア剛史教諭が声をかけると、全員がiPadを机の上に取り出し、慣れた様子で画面をタッチし始めた。「用紙を送りました」は、資料を一斉送信した状態。「できた人から出してください」は、ログインして先生に送信せよ、ということだ。しばらくすると、スクリーン上に次々に生徒の回答が現れた。プリントを配布し、黒板に書いて発表する従来のスタイルとは様子が違うが、生徒らは他の人の回答を見て、活発に意見を述べていた。
 調べものにもiPadは活躍する。2017年度にWi-Fi環境が整備され、検索はスムーズだ。英語科の田辺瑞歩教諭は、授業のテーマに沿って各自でネット検索し、wordでレポートを作成するよう指示した。写真や資料を貼りつけようとして、サイズが大きくなりすぎるなど、生徒は悪戦苦闘。「iPadは便利だけど、操作がちょっと難しい」と、ぼやきつつも楽しそうだ。
 附属中高では、2017年から順次、iPadの導入を進めている。同時に全教室に電子黒板を配備。iPadは2018年6月までに中高の全生徒が持つ予定だ。情報のバックアップのため、大学と共通の「mwu.jp」のアドレスも付与した。また、クラウドサービスの「Classi」を取り入れて、日々の連絡や学習記録、予習復習にiPadを活用している。
 そもそも附属中高はスマホの携帯を禁止しており、アドレスを付与することには慎重意見もあった。このため、当面は全学年とも、アプリなどを自由にダウンロードできないよう、学校側が制限をかけている。また、「iPad武庫女リテラシー」という規約を作って配布し、節度ある利用を呼び掛けている。
 教職員の会議や連絡も2018年度から原則としてiPadで行うことになった。必要な資料は共有フォルダにPDFで入れておき、各自でiPadにダウンロードする。大量の紙資料がなくなり、過去の資料も検索しやすいとおおむね好評だ。
 こうしたICT化に対応するため、2018年からSE(システムエンジニア)の職員が常駐している。この職員を中心に、これまで業者委託だったホームページを、学校独自に作ることになり、2018年5月、リニューアルした。業者を通さないことでデザインの変更に即応でき、フレキシブルに作り込みができる。今後はクラブ活動やイベントの動画もアップし、リアルタイムで情報を出していく方針だ。
 附属中高のICTの取り組みは早く、2000年に中高で情報教育の授業を始めたのを機に、教室のマルチメディア化や、図書館システムの導入、パソコン教室の整備を進めた。
 情報の授業は中1と中3〜高校2年までは週一回の必修科目。WordやWebページの作成、表計算、データベースの構築などを学ぶ。高校3年はプログラミング言語(C言語)を習得する選択科目になる。約40人が受講しており、ゲームや楽曲作成、心理テストなど、オリジナル作品を制作する。附属中高が進める理系女子の育成につながる成果だ。 

(米)

沖縄からパスポートを携えて――座談会「短大二部沖縄編」開催[2018/01/12更新]

 沖縄がまだアメリカ統治下にあった昭和30〜40年代。向学心を胸に、パスポートを携えて武庫川女子短期大学2部に進学した学生たちがいた。当時、女子高等教育のメーンステージは短大にあった。まだ女性の進学率は低く、働きながら学べる2部は人気があった。武庫川学院はこうしたニーズをいち早くキャッチ。1950年、短大開設と同時に夜間の2部を開講した。戦争中から代用教員として教壇に立っていた女性たちが、正式な免許を取得すべく通うケースが初めのうち、目立った。短大の2年間で教員免許をはじめ、様々な資格が取れる学校は少なかった。
 沖縄からの進学者にもそれぞれの事情があった。戦争で深く傷ついた沖縄は、戦後20年たっても、高度経済成長に沸く本土に立ち遅れていた。高校に進み、大学進学を希望する学生もいたが、沖縄に大学が少なかった。そんな閉塞状態の中、「働きながら進学し、教員や保育士の資格を取得できるよう、全面的にサポートする」という企業が現れた。伊丹市の「倉毛エレクト工業」(当時)。1966年、よりよい人材を求めて高卒者にターゲットを絞り、沖縄に求人に乗り出した。同社は、武庫川女子短期大学をはじめ、阪神間のいくつかの学校に協力を依頼。寮や送迎バスも完備した。学生は希望する学校に通いながら、働いた給料から学費を払い、2年で故郷に帰って教壇に立つことも可能――。真剣な面持ちで人事担当者の話に聞き入った学生の多くが、この企業に就職した。
 沖縄から船で3日。パスポートを握りしめ、神戸港から西宮市内へ。初めての本土の記憶は、驚きがいっぱいだ。「到着した日、みぞれが降っていた。翌日には氷が張って、うれしさに寒さを忘れた」「初めて梅田に出たとき、横断歩道の人の多さに、足がすくんだ」「関西の人がカレーに生卵をかけるのでびっくりした」――。仕事は紡績か組み立てのいずれかで、午前7時から午後4時まで。夕食をとり、バスに乗り込んでキャンパスに向かい、午後9時、バスで学生寮に帰る。寮は4人、5人同室。仕事と学生の2重生活はあわただしく過ぎ、卒業から45年が経過した。

 1988年に役割を終え閉学した短大2部は、学院の発展に大きな足跡を残した。全国から集まった2部学生を代表し、1962年から1972年に卒業した沖縄出身者5名と、学院長、学長による座談会「短大2部沖縄編」が2017年11月20日、行われた。

「おかえりなさい」――。卒業生座談会はいつも、糸魚川直祐学長の、この言葉で始まる。大河原量学院長は「学院発展期の活気ある記憶を、80周年の節目にぜひ記憶にとどめたい」と呼びかけた。

 参加者の中で一番先輩の稲嶺靖子さん(家政科卒)は、まだ倉毛エレクトが求人に乗り出す以前、尼崎市の叔母宅に住み、働きながら短大2部に通った。「教員になりたいという明確な目的がありました。当時、同じ学科の同級生は30人ほどでしたが、その半数は代用教員から引き続き教壇に立ち、正式な教員免許を得ようと通学している人たちでした」。稲嶺さんは、琉球政府が発行したパスポートと、日本政府の身分証を大切に保管していた。色あせた二冊を示し、「復帰前はいろんな制約がありました。関西まで今なら飛行機でひとっ跳びですが、距離以上に遠く感じられました」と言う。情報不足から、沖縄に対する偏見もあった。「働きながら学ぶのは厳しかったけれど、それを乗り越えた強みは今に生きています。沖縄にいては、見聞きできない広い世界に触れることができた。時刻表の見方も本土で初めて知り、後々、出張の際に、ずいぶん役立ちました。『知る』こと、体験することは実に力強いな、と思います」。卒業後は沖縄県教育委員会で定年まで教育行政に携わり、退職後は、ガールスカウトの指導や子育て支援ボランティア等で社会とつながっている。
 小橋川好美さん(教育科卒)も、「教員になる」という強い意志で大学進学を目指したひとりだ。琉球大学の再受験を迷っていたとき、高校の進路指導室で倉毛エレクトの求人説明を受け、「2年で教員免許が取れるなら」と、飛びついた。その強い意志を貫いて、沖縄で小学校教員となり、校長まで勤めた。
 仲里和枝さん(教育科卒)は小橋川さんと名護高校の同級生。そろって武庫川に進学した。「教職に必要なので、触ったこともないピアノを必死に練習したのを覚えています」。卒業後、東大阪市内の幼稚園教諭を勤め、返還直後の沖縄に帰ってからは、看護助手として診療所勤務を62歳まで続けた。「教員とは違う道を歩んだけれど、教員免許があることで、どこへ行っても認めてもらえて、自信になりました。都会のスピード感に慣れたおかげで、沖縄では『テキパキよく働く』と評価されるようになりました」と笑う。
 国吉とみ子さんは国文科卒。琉球大学への進学がかなわず、合格した那覇市役所の採用通知もなく、悶々としていたとき、職安で倉毛エレクトの求人を知った。「捨てる神あれば拾う神あり、という思いでした。先生になりたいというより、まだ学びを続けられる、自分の居場所が得られる、という喜びが大きかった。2年間、企業に守られて、休むことなく学業に励みました」。沖縄に帰って2年間、観光業に携わった後、公文式教室を開設した。
 全員が教員免許を手に故郷に帰ったが、必ずしも先生になったわけではない。黒島悦子さん(被服科卒)は、教育実習での小さな失敗が心にひっかかり、結局教員にはならなかったが、教員免許取得という目的に向かって努力し、目的を達成したことは、自信になった。「夜間の学校って大変だったでしょう、と言われますが、良い先生、先輩、仲間に恵まれ、私にとっては心弾む、楽しい学生生活でした。人生で一番勉強した2年間です」。
 
 座談会には、卒業生のうち4名の採用を担当した元倉毛エレクトの門脇精さんも参加した。「門脇さんとの出会いがなければ、武庫川と私たちがつながることはなかった。母校を訪ねる前に、一言御礼を言いたい」と、国吉さんがツテを頼って探し出した。門脇さんは参加者らと座談会当日、40数年ぶりの再会を果たし、「夢のよう。冥利に尽きる」と喜んだ。座談会では、企業人の目線で、当時の沖縄の状況や、勉学をサポートした真意を語った。
 「倉毛エレクトは当時、紡績と各種電子機器の開発、ラジオの組み立てなどをしていました。私が沖縄に求人に乗り出したのは1966年春。すでに沖縄は観光客でにぎわっていましたが、華やかな国際通りの一筋裏には、バラックに何世帯もがひしめき暮らし、郊外には戦争で主を失った空き家が点在して、様々な問題を内包する現実がありました。そのような沖縄の将来を考えたとき、若い人が本土に来て工場で働いても、その経験だけでは故郷に帰って何の役にも立たない。働きながら免許をお土産に帰ってもらい、沖縄のために役立ててほしい、と考えたのです」。
 早速、阪神間の通学可能な数校に協力を依頼。その中に武庫川女子短期大学もあった。
「当時の日下晃学長に面会し、沖縄の状況をお話しました。学長は深くうなずかれ、『ぜひ、本学に合ういい子を連れてきてください、沖縄でお役に立つよう、教育は我々でしっかりやりますから』と、おっしゃっていただきました」と振り返る。

 全員が卒業後、はじめての母校だという。すっかり様変わりしたキャンパスに、当時の学院の様子や先生の思い出にも話が及んだ。
 黒島さんは、ある夜、通学バスを降りると、木造校舎の下にローラーがはめ込まれるのを目撃した。気になりながら授業に向かい、帰り際に再び見ると、先ほどの校舎が跡形もない。「取り壊されたわけでもないのに、一瞬のうちになくなったのでびっくりしました」。これに対し、大河原学院長は「それは学院記念館ですよ。高等女学校時代の建物の一部で、昭和天皇が行幸されたとき、ベランダに立たれた記念の建物なので、今も学内に移転して残してあるんです」と種明かしをした。
 稲嶺さんは、2部の主任教員の思い出を語った。「2部の学生に理解がある先生で、いろいろな相談に乗ってくれた。修学旅行に行くお金がない学生には『僕が貸してあげるよ、みんなで行こうよ』と言って下さいました」。

 鳴松会の沖縄支部には同窓会員が80名いる。最近は沖縄にあこがれて、移住してくる卒業生もいるという。沖縄支部長を務める小橋川さんは「沖縄で関西出身の人に『武庫女の卒業なのよ』というと、『いい学校よね』とほめられるので、自信を持って言っています」、仲里さんは「甲子園球場がテレビに映ると、武庫川学院の広告が見えて『あ、母校が出てる』とうれしくなります」と、母校愛もあふれた。
 学生から「高校卒業後、県外の大学に進学する人は多かったのですか」「地方から若い人が都会に出ていくのは、地元にとってマイナスだったのでは」など、質問も飛び出し、座談会は熱気に包まれた。最後に大河原学院長が「沖縄からたくさんの学生が来てくれるように、手だてを尽くしたい」と呼びかけると、「アメリカ分校など国際化を推進していることを強調しては」「寮があるなら沖縄から進学しやすい」「高校や塾に情報を提供して」と、卒業生からアドバイスが相次いだ。
 

(米)

地域とともに1――音楽学部 定期演奏会[2017/12/19更新]

 大学の使命の一つに「地域への貢献」がある。武庫川学院の地域貢献の歴史はいつ始まったのか。
 聴衆を必要とする学部の特性上、音楽学部は地域貢献に親和性が高い。その年の教育成果を発表する定期演奏会は広く一般に公開し、50年以上の歴史を重ねてきた。
 第1回の定期演奏会は、1963年1月11日に開催。声楽界の重鎮だった木下保教授が1〜4年生全員による合唱を指揮した。1980年ごろまで、メーンはピアノ伴奏による女声合唱だった。当時、ステージで着用していた真っ白のロングドレスは、学生の間で“イカドレス”と呼ばれ、親しまれた。会場は、神戸国際会館など、学外のホールを利用し、教員が演奏することもあった(写真右は1967年、第5回定期演奏会)。
 近年は公江記念講堂を会場に、オーケストラのみの曲とオーケストラ演奏による合唱曲を披露している。オーケストラには演奏学科管弦楽器専修の1〜4年生、合唱は演奏学科と応用音楽学科の1〜3年生が参加。女声ソリストは学部内のオーディションで決定する。
 2017年12月9日、第50回の節目の定期演奏会が開催された。前半はチャイコフスキーのバレエ音楽「白鳥の湖」、後半はラターの「マニフィカート」。オーケストラはバイオリンやフルート、クラリネットを学ぶ学生をはじめ、卒業生、教員、エウフォニカ管弦楽団で編成し、谷光信・非常勤講師が指揮した。「マニフィカート」では、同志社グリークラブが男声コーラスで加わり、ソリストの演奏学科3年、前田あすかさんが透明感ある伸びやかなソプラノで魅了した(写真左)。会場設営や当日の受付、誘導等も学生と教職員が携わった。まさに音楽学部の1年の集大成だ。
 地域の恒例イベントとして、楽しみにしているファンも多い。この日は約480人が詰めかけた。近くに住む女性は「20年位前から毎年のように来ています。生の素晴らしい音楽がこんな身近で聴けてありがたいです」、夫婦で来ていた女性は「阪神電車内の広告で開催を知って、初めて来ました。ソリストの歌声がとてもきれいで素敵でした。50回も続いているんですね」と話していた。
 音楽学部は現在、浜甲子園団地での参加型演奏会「浜甲カンタービレ」や、甲子園会館での年3回の演奏会など、地域に活動の場を広げており、顔なじみも多い。ソリストの前田さんは「舞台から、日ごろお世話になっている地域の方々のお顔が見えて、安心しました。心から楽しんで歌うことができました」と、話していた。

(米)

警察官採用女子大一の実力――座談会「安心・安全を守る」開催[2017/12/19更新]

 警察官、麻薬取締官、警備会社勤務――。「安心・安全を守る」職業に従事する卒業生5名と大河原量学院長、糸魚川直祐学長による座談会「安心・安全を守る」(武庫川学院創立80周年記念プレイベントL)が2017年10月28日、図書館2階グローバルスタジオで行われた。
 武庫川女子大学の特色の一つに、警察官採用人数の多さがある(朝日新聞出版 大学ランキング2018 女子大1位)。これは教育目標「社会に貢献できる女性の育成」の成果であり、武庫女生のまじめでひたむきな気風の表れだ。警察官に限らず、「安心・安全」に関わるフィールドで活躍する卒業生は多い。
 ハードな現場に飛び込んでいく原動力は何なのか。
 卒業生からは「アメリカ分校(MFWI)に留学したとき、安全に対する日米の意識の違いを再認識した」「薬学を学ぶうち、薬で助かる人の一方で、薬で苦しむ人がいることを知った」「大学で柔道を続ける中で、警察官を身近に感じた」という声が聞かれた。地域の女性防火クラブで活躍する防災士・井関雅子さんは「人を思いやり、支えあう武庫川学院の校風に接したことが、今のボランティア精神につながっている」と言い、大学・短大での学びが何らかの形で職業選択に結びついているようだ。
 ライフイベントとの両立にも話題が及んだ。「安心・安全」に関わる職業に就く女性はまだ少数派だが、職種によっては女性が多い。最近は女性が働きやすい環境整備も進んでいるという。「結婚・出産を経て働き続ける先輩が多いので、それに続きたい」「現場で経験を積んだあと、子どもたちへの啓発活動に従事したい」と、描く未来は堅実で明快だ。
 学生時代にやっておけばよかったこととして、「幅広い人との交流」を挙げる卒業生が目立った。様々な立場や境遇の人に向き合う仕事柄、多様な価値観に目を開く必要性を痛感するという。学生から「武庫川女子大学の強みは」と問われ、「学生が全国から集まっていることが一番の魅力。いろんな人の考えに触れるチャンスととらえて」と、エールを送った。
 座談会では、警察官が護身術のコツを実演したり、防災士が手作りの防災頭巾を披露する場面(写真左)もあり、卒業生らの真摯な姿に大きな拍手が送られた。

(米)

馬は恋人!?馬術部を支える2頭の名馬[2017/10/30更新]

 武庫川女子大学には、女子大では珍しい馬術部がある。1967年創部の伝統あるクラブ。自前の馬場を持たず、自馬は16年前に購入したムコワカワシ(愛称:ワカ、雄、21才)1頭きりという小所帯だったが、昨年、2頭目の馬が加わったことから、人馬ともにモチベーションが上昇中だ。2017年8月に開かれた関西学生自馬馬術大会の障がい飛越競技で、平野貴子さん(薬学部薬学科4年)が並みいる強豪を抑えて優勝した。同じ種目に出場した白井彩菜さん(心理・社会福祉学科4年)も5位入賞を果たし、“新生・馬術部”を印象付けた。
 「自分では満足のいく出来ではなかったので、まさか優勝なんて…。馬のおかげです」と平野さんは控えめだ。快挙を遂げた馬は昨年、新たに加わったムコダズウェル(愛称:ダズ、雄、5才)。滋賀県の乗馬クラブで生まれ、馬術の練習馬として育てられた。“先輩馬”のワカは、もともと地方競馬で活躍したサラブレッド。長年、唯一の練習馬として部に貢献し、2015年、関西学生馬術連盟から「功労馬」として表彰された。体力の衰えが心配されていたが、若いダズが加わったことで、ワカの負担が減り、部員の練習量も増えた。大会では、一つの種目に同じ馬は2回までしかエントリーできないことから、これまで制限された大会への出場のチャンスも広がった。
 運動系クラブで唯一、生き物を扱うのが馬術部だ。現在、部員は8人。馬は神戸市兵庫区の菊水ゴルフクラブ内にある乗馬クラブ「トゥインクル」の厩舎にいるため、部員たちは大学から約1時間かけ、同クラブに通い、馬の世話と練習をしている。
 厩舎で待つ2頭の馬の元気な様子を見ると、部員たちは、ほっと胸をなでおろす。元気に見えても、風邪をひいたり、爪にばい菌が入って急激に体力を失うリスクがあり、気が抜けない。全身にブラシをかけてマッサージし、装具をつけ、馬場に連れ出す様子は、まるで恋人をいとおしむよう。馬場に出ると、一人ずつ乗馬して、常歩(なみあし)、速歩(はやあし)、駈足(かけあし)をこなし、馬と呼吸を合わせていく。
 「キャンパスに馬場を持ち、自馬を10頭以上抱える大学が多い中で、不利な条件にめげず結果を出せたのは、自信につながりました」と藤本智子コーチは言う。自身も武庫女の卒業生で、馬術部の先輩だ。
 「乗り手によって、馬の動きが変わる。馬が乗り手の状態を示すバロメーターになるんです」と藤本コーチ。馬の個性もある。ワカは頭がよく、頑固。初心者には親切だが、少し侮ると態度を一変させ、一歩も進んでくれないことも。ダズはまだトレーナーの調教中。進んで障害物に向かっていく若々しさが、先の快挙につながった。部員たちは馬の機嫌や調子に振り回されながら、「自分の努力だけではどうにもならないのが、馬術の難しさであり、面白さ。メンタルを鍛えられます」と、前向きだ。平野さんと白井さんは、大学に入ってから馬術を始めた。振り落とされたことも1度や2度ではないが、「一度始めたらやめられない競技」と、口をそろえる。「しばらく練習場に行かないと、ワカやダズに会いたくなります」。やっぱり恋人のようだ。 

(米)

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