武庫川女子大学
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武庫川学院80周年

線路を歩いた戦時の女学生――72年前の”レールウォーク”[2017/05/18更新]

 武庫川女子大学の”玄関口”である阪神電車鳴尾駅は明治38(1905)年、大阪から神戸まで阪神電車が開通したのに伴い、開業した。当初、プラットフォームはなく、乗客は直接地面に降り立った。
 2017年3月。阪神本線の高架切り替えで鳴尾駅は上下線とも高架駅に生まれ変わり、役目を終えた旧鳴尾駅上り線で、線路を歩くイベント「レールウォーク」が行われた(写真)。歴史の長さを裏付けるように、開始の午前10時には、すでに定員1000人を上回る列ができた。参加者は足元を気にしながら、線路を踏む感触を楽しんだ。
 その線路を、かつて、もんぺ姿の女学生らが、空襲におびえながら歩いた。戦火がいよいよ本土に及んだ昭和20年(1945年)ごろのことだ。
 武庫川高等女学校6期生(1944年入学)の山本静代さんは、自宅のある尼崎から朝、登校のため鳴尾駅に着くと、しばしば空襲警報で足止めされた。駅の地下通路に伏せ、危機が過ぎ去るのを待つ。敵機が低空をバリバリと音立てて飛ぶたび、身を固くした。警報が解除されても学校は休校、電車は動いていない。武庫川を徒歩で越えるには、遠回りをしなければならなかった。そんなとき、「冒険心もあって、時々、友達と示し合わせて線路伝いに帰りました」と山本さんは打ち明ける。
 もんぺにへちま襟の上着という当時の女学生スタイルで、鳴尾のイチゴ畑を抜け、武庫川右岸の堤防を北上すると、「柵ひとつなく、線路に入れた」と言う。
 当時、西宮側に武庫川駅の改札口はなかった。「堤防から駅舎まで少し距離があり、川の上に線路がむき出しになっている箇所がありました。つかまるところもなく、踏み外したら落ちるしかない。枕木の隙間からきれいな水面が見えると足が震え、『怖い怖い』と大騒ぎです。スリル満点のささやかな楽しみでした」
 災害時、線路が道路代わりになるのは、戦争中も同じだ。疎開先で実家周辺の空襲を知り、いてもたってもいられずに――。家を焼け出され、身を寄せる場所を探して――。戦時の様々な状況下で、線路を歩いた思い出を、何人かの卒業生に聞いた。スマホの地図検索機能もない時代に、線路は目的地を指し示す道標でもあったろう。
 戦後72年の「レールウォーク」は旧鳴尾駅舎から東へ約200メートルで折り返すコース。父親と参加した小学6年の男児は「でこぼこして歩きにくいけど、面白い!」と、元気に往復した。その線路も撤去が進み、頭上を滑らかに電車が走りすぎる。

(米)

出欠制度に歴史あり――手配りからピグマへ[2017/05/17更新]

 新学期が始まって1か月余り。授業に欠かせないのが出欠確認だ。武庫川女子大学履修規程に「毎回出席、欠席、遅刻、早退の調査を受けなければならない」とあるように、出欠確認の厳格さは、創立以来、本学の特色の一つだ。
 授業開始前。携帯用カードリーダー「ピグマ(Pygma)」に、IC機能付き学生証「M.I.C」をかざすと「ピッ」という音がする(写真右)。これで学生のカード番号がピグマに蓄積され、教員がパソコンに接続すれば、教育支援システム「MUSES」に出欠が自動的に記録される。いまや、最もポピュラーな出欠管理法だが、こうした機器がない時代、出欠確認は人海戦術だった。
 少人数の授業では、点呼で事足りるが、100名を超える大人数の授業では、代返等、不正のチェックが難しい。そこで4×8センチほどの出席カード(写真中央は職員による再現)を各自に配布し、記名したものを回収する方法が長くとられた。元職員の記憶から、1954年にはこの方式が定着していたようだ。
 カードの配布、回収を担当するのは教務課だ。毎朝、授業開始前に、カードに日付印を押印。2人1組で担当する教室に行き、授業が始まると教室内を移動しながら、一人ひとりにカードを配った。学生は受講科目や名前、クラス等を書き込み、授業後、教室の出口に設置した木箱に投入する。木箱から中身を回収し、出席簿に出席を示す「○」のゴム印を押すまでが、教務課の仕事だ。カード提出後、ちゃっかり途中退出する学生もいたため、授業終了直前に、再度、カードを配り、2枚そろって、はじめて出席とするケースもあったという。履修者300名のクラスなら配るカードは実に600枚だ。
 1984年ごろから主流になったのが、今も一部使われている署名方式(写真左は再現)だ。出席番号を記入した細長い用紙に各自、名前を書きこんでもらう。授業後、この紙を回収し、半期全15回分が一覧できるよう、大判の台紙に貼り付けた。横一列に同じ学生の署名が並ぶので、代筆しても、すぐ見抜かれるというわけだ。
 しかし、出欠確認が必要な授業科目数は年5000科目以上。手作業では限界があり、出欠管理システムの開発が待たれていた。02年度に「M.I.C」、05年度に「MUSES」が開発されてデジタル環境が整ったことから、ドコモシステムズとカードリーダーを共同開発。06年度に「ピグマ」が導入され、現在の「ピッ」とかざすスマートな出欠風景が生まれた。
 ちなみに「ピグマ」の名は、ギリシャ神話のミューズ(女神)に恋する「ピグマリオン」と、教師が期待をかけると生徒の成績が向上する「ピグマリオン」効果に由来する。「ピッ」と鳴るたび、やる気スイッチがONになることを期待したい。

(米)

学寮物語5―― 最初の“寮”は校祖宅[2017/05/16更新]

 最初の“寮”は、校祖・公江喜市郎氏の自宅だった。
 1946年に開学した武庫川女子専門学校(写真)に、和歌山や三田市から進学した一期生4人がいた。自宅通学が難しい彼女らを、校祖・公江喜市郎氏は「うちに来たらええ」と、甲子園の自宅に迎え入れた。和歌山県出身の亀岡喜子さん(1949年家政科卒)と榎本美登里さん(1949年国文科卒)は、公江家でほぼ2年を過ごした。
 亀岡さんが言う。「公江先生のお宅は二階建てで、階段を上がって左側がお嬢さんの千鶴子さんのお部屋、右側の6畳が私たち4人の部屋でした。食事はお手伝いさんが作ったものを、別室で食べました。朝食に出された自家製のふかしパンがおいしかったのを覚えています」。
 一つ屋根の下で、不思議と公江家の人々と顔を合わせることは少なかった。
 榎本さんは言う。「千鶴子さんの弾くピアノの音が時々、聞こえました。公江先生は朝早く自転車で出かけ、夜遅くお帰りでしたが、家の中でお会いすると、『元気か』と声をかけて下さいました」。
 しばらくすると、武庫川のほとりにあった木造2階建てアパートの数室を学院が寮として借り上げ、公江家にいた学生たちは転居した。下級生も加わって人数が増えると、部屋割りをくじ引きで決めた。公江家でもアパートでも、「わきあいあいとして、楽しかった」と、口をそろえる。「夏暑い日は、人目を避け、日が暮れてから武庫川でひと泳ぎした」「停電のたび、配給の油を布に染み込ませた自家製のロウソクの灯で勉強した。朝になると鼻の孔が真っ黒だった」「珍しいお菓子が手に入ると、みんなで分け合った」――。戦後間もないころ。ものは乏しく、食事は七輪で火を起こして自炊し、配給のいもを弁当替わりにした。豊かさの兆しもあった。ダンスが大流行し、ミニスカートにポニーテールでダンスホールに繰り出す学生もいた。
 「いろんな人と出会い、人に合わせること、我慢することを自然に覚えました。潔癖で融通のきかない性格が、少し柔軟になったのは寮と女専のおかげと、感謝しています」と榎本さん。校祖が学生を家族として迎え入れたときから、「教育寮」としての歴史は始まっていた。
 学寮は武庫川学院が全国区になるにつれて増え続け、1966年、最多の16寮を数えた。

(米)

Let’s do sport in English!――健スポが専門英語の授業をスタート[2017/05/15更新]

 「Swing your arms!」「Moving forward with your right leg」「Drop your weight!」――。レオタード姿の学生約20人が、村越直子講師の英語の指示に合わせ、前屈したり、肩を回したりする(写真右)。隣の教室では、コーカー・ケイトリン講師が、二人一組で体を整える方法を、実演を交えて教えていた(写真左)。会話はすべて英語だ。同時刻、プールでは水中の選手らに英語で指示が飛び、MM館ではバイオメカニクスの授業が英語で行われていた。
 2017年度から始まった健スポの専門英語の授業。これまで基礎英語中心だった英語8単位のうち、2単位をスポーツに関わる専門英語に切り替え、選択必修とした。担当するのは、ネイティブや海外経験の長い講師ばかりだ。
 渡邊完児学科長は「アスリートやコーチは海外遠征の機会が多く、手続きやコミュニケーションに英語は欠かせません。スポーツにまつわる英語なら多少、聞き覚えもあり、動作も加わるので親しみやすいはず。定着すれば、ほかの授業にも英語を取り入れていきたい」と言う。
 ダンスの授業では、英語に加えて「プリエ」「ジュテ」など、フランス語も飛び交う。「ダンスは、フランス語が英語化した用語も多いので、世界共通語としてのダンス用語を伝えています。どれも単純な指示だけど、意外にわかる、通じるという体験を通して、英語を身近に感じてほしい」と村越講師。実際、学生たちは、英語の指示に戸惑うことなく、スムーズに動き、講師のジョークに笑い声が上がる。3年の鎌谷優圭さんは「時々わからない英語もあるけど、動きで想像がつきます。この授業なら、英語が楽しく身に付きそう」と、話していた。

(米)

オリンピアンの鈴木康弘さんが武庫川女子大学大学院に入学[2017/05/12更新]

 マスクを装着した被験者が、トレッドミル上を走る。その傍らで、酸素摂取量や心拍のデータを書きとめる長身の男性がいた。2012年のロンドンオリンピックでボクシング日本代表として活躍し、現在、近畿大学ボクシング部監督を務める鈴木康弘さん(写真左端)。2017年春、武庫川女子大学大学院健康・スポーツ科学研究科 健康スポーツ科学専攻 修士課程に入学し、スポーツ生理学を専門とする渡邊完児教授のもとで、ボクシングに欠かせない減量について、科学的エビデンスに基づく方法論の確立をめざしている。
 鈴木さんは北海道出身。小学4年からボクシングを始め、拓殖大学から自衛隊体育学校に進み、アマチュアボクシング界で頭角を現した。ロンドン五輪ではウェルター級に出場した。リオ五輪にも出場が期待されたが、2016年、現役を引退し、指導者の道に進んだ。
 武庫川女子大学の大学院を選んだのは、昼夜開講で監督業と両立でき、研究したい領域があったから。現役時代、自己流の減量でつぶれていくボクサーを何人も見て来た。「アマチュアボクシングはプロと違って試合当日に計量するので、減量で体力が落ちたまま試合に臨み、ベストパフォーマンスができないケースが多い。体力と筋肉量を保って脂肪量を減らすのが理想だが、間違った情報が多すぎる」。オリンピックや海外遠征で、世界のレベルを目の当たりにしたこと、自衛隊体育学校で、最先端のトレーニング方法や栄養指導に接したことも、「経験値だけでなく、科学的にボクシングを検証したい」という思いにつながった。自身は減量の経験がなく、食生活にも無頓着だったが、「指導者として、これでは学生に示しがつかない」との反省もあるという。
 学生時代はボクシング一筋。研究どころか、まともに勉強するのも「あまり経験がない」と笑う。「国語や算数の勉強は嫌いだが、スポーツに関する勉強は面白い。大学院では海外のウォーミングアップの仕方とか、メンタルとフィジカルの関係など、いろんな領域の知識が得られ、毎日の授業が楽しみです。周りの先生や院生の研究を見るのも刺激になります」。
 入学してすぐ、プレゼンテーションする場面があり、慌ててパソコンを購入し、ワードやパワーポイントの使い方を覚えた。世界トップレベルのロシア圏の指導法を知るため、ロシア語の勉強も独学で始めた。「一つ勉強すると、関連してあれもこれも知りたくなる」と、張り切っている。
 研究テーマは、一般的なダイエットにも通じることから、武庫女発「ボクサー式ダイエット論」に期待がかかる。ただ、鈴木さんは、女子大に通うことに「女性ばかりで、アウェー感がある」とか。「試合でも、ゴングが鳴るまで足が震えるほど、緊張するタイプ。大学院は人前でしゃべる機会が多くて、まだ慣れません」と、大きな体をすくめた。

(米)

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