武庫川女子大学
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武庫川学院80周年 共通教育『本を編む』履修生も取材中!

共通教育「本を編む」は、2016年度から2019年度の4年間で、学生が取材、執筆、編集を学び、「もう一つの80年史」を作るチャレンジングな授業です。
学生が書いたフレッシュな記事を、一足早く、お届けします。

★名誉教授 永田隆子先生(健康・スポーツ科学部) 「ホットでオープンな教育を目指して」[2018/03/29更新]

 教員生活でのテーマは、”オープンな環境”。かつて、自分の入学式で、校祖・公江喜市郎先生の「大学では自ら学ぶため、研究室に行きなさい」という言葉に感銘を受けた。だから、研究室を常に開放し、自ら学びに来る生徒を受け入れてきた。
 名誉教授の永田隆子先生は、健康・スポーツ科学部の前身となる、文学部教育学科体育専攻出身のOGである。今では教員をはじめ、地域スポーツの指導者や一般就職など、さまざまな進路を選ぶ学生がいる”健スポ”だが、当時は、体育教師のたまごを育て、現場で役立つ指導者を送り出すことが目標だった。上下関係はもちろん厳しかったが、永田先生はそれを「ホットだった」と表現する。厳しくも優しい上級生は”憧れのお姉さん”だった。
 中学・高校と続けていたバレーボール部に大学でも所属。卒業と同時に武庫川女子大学の教員となり、バレーボール部のコーチも務めることに。昨年まで学生として学び、選手としてプレーしていた者が、指導する立場へ。立ち位置の変化に戸惑ったのは「OGならではの苦労だった」と当時を振り返る。
 結婚、出産後は競技スキー部を担当することになり、40年以上経った今も総監督を続けている。一番の思い出は全関西学生スキー選手権大会での五連覇。五連勝目は周りから「厳しい」と言われ、自身もあきらめかけて、「次のシーズンに向けてトレーニングしなさい」と言った。その言葉で逆に、学生が目の色を変えた。毎晩の熱いミーティングに、選手といっしょに何度も泣いたが、努力とチームワークで勝利を勝ちとった。
 現在も、オープンカレッジの所長や、同窓会組織である鳴松会の幹事長として、地域の人や卒業生など、多くの人と関わる永田先生。「本学を、卒業してからも”役立つ場”にしたい」と語る。
 これからも、その明るい笑顔と人柄に、人が集まり続けるだろう。
(大日2年・湯浅愛理、大日3年・森原舞由、短日1年・津田千尋)

★名誉教授 佐竹秀雄先生(文学部) 「思い出に優劣はつけられない」[2018/03/29更新]

「考えたんだけどねぇ、やっぱり一番はない」。佐竹先生はそう言って微笑んだ。

 1989年4月、言語文化研究所の専任の研究員、文学部の助教授として武庫川女子大学にやってきた。1994年に教授、1996年には所長として研究所を盛り立てた。そして、2014年の退職にあたり名誉教授の称号が授与された。現在は非常勤の研究員として、また日本漢字能力検定協会現代語研究室室長として活躍されている。

 佐竹先生のゼミはいつも希望者が多かったという。講義形式ではなく、難しい知識もいらない。扱うのは自分たちが普段使っている言葉だから、あらためて勉強する必要もない。佐竹先生の問いかけについて考えて、意見を言う。だから生徒からは「楽だし、楽しい」と人気だった。
 人であったり、事象であったり、関係など、何かを理解しようとしたとき、手がかりになるのが言葉だ。日々の生活で、私たちは常に何かを“理解”しようとしながら生きている。佐竹先生は、言葉は“理解”するための手がかりになるのだと言った。だからゼミや講義で、または一般向けセミナーで、言葉について考える機会を設けた。セミナーは現在も年1回行われている。
 今と昔で、武庫女に違いはあるかと問いかけたとき、先生は「基本的にはそんな変わってないよ。でも、今は“気が散る”というか、いろんなものが気になるようになったよね」と言った。様々な性格の学生が入学するようになったこと、スマートフォンなどの便利な電子機器など、昔とは違い“気が散る”ものが増えた。それは良い影響を与えている部分もある反面、勉学においては集中力を散らされる原因になっている。そして、スマートフォンなど電子機器が普及したおかげで、発見の機会がなくなっているとも言った。昔は「仕方がないな」と思いながら図書館で調べ物をしていたが、今はインターネットを介してその場で調べ終えてしまう。それは、新しい発見につながらない。「仕方がないな」がない現在の学生は、少しかわいそうだと佐竹先生はしみじみと言った。
 言葉について話しているとき、佐竹先生は特別楽しそうに笑う。熱意と好きだという感情をひしひしと感じる。
 一番心に残っている思い出はなにか。私の最後の質問に、佐竹先生は「一番はつけられない、つけちゃいけないと思う」と苦笑した。いくつもあって、それは関わった学生の数だけ存在する。そして、それらひとつひとつに優劣はつけられないから。よい思い出も苦い思い出も、すべてがかけがえのないものなのだと語った。
(大日2年・木村泉美、大日1年・高見真古、大日1年・曽我真子)

人をつなぎ、創意工夫をつないだ40年[2017/11/13更新]

総務部
後藤章部長

 「あのプレッシャーを乗り越えた時代を忘れられない」。そう語るのは、武庫川学院に40年以上勤める後藤部長だ。様々な部署を通して、学院を見てきた後藤部長が、「忘れられない」というのは、1978年から1994年まで16年間、第二代学院長の日下晃氏の秘書として勤めた日々だ。日下前学院長を間近で見て、その人柄と教育への情熱に尊敬の念を抱き、懸命に仕えた。「日下先生は、初代の公江喜市郎先生から学院長を引き継いだ当初、プレッシャーで夜も眠れない日もあったようだ」と振り返る。初代・公江氏は1939年に、武庫川学院を立ち上げた校祖であり、若くして兵庫県教育界を率いた”カリスマ的人物”。すでに副学院長・学長として公江氏を支えてきた日下氏だったが、やはり重圧だったはずだ。その中で、先代の思いを受け継ぎ、学部改組、学科増設、大学院の高度化など、武庫川女子大学の教育の質の向上に全力を尽くし、「プレッシャーを乗り越えて」学院を発展させた。
 後藤部長が日下前学院長から教わったものは数知れない。その1つが「創意工夫」だ。「日下先生は、常に学院の発展を願い、そのための工夫を凝らし、努力を重ねておられた。教育に人生をささげ、激しさを増す大学間競争を勝ち抜いたその姿は、公江先生とだぶって見えました」と言う。
 「いろいろな部署、いろいろな仕事を経験したが、どんなところにも楽しみはある。武庫女生には、就職先で、”楽しい”と思える仕事を積極的に見つけてほしい」と笑顔で語る。常に新しいもの、より良いものを探し、発信し続ける後藤部長には、どこか日下前学院長の情熱が息づいている気がした。

南文華(大日3年)、山崎蓮珠(大情2年)

頼れるキャリアセンター[2017/09/25更新]

キャリアセンター
中川千寿さん

 「中学からずっと武庫女で、自分が一番役に立てる場所はここだと思った」。
 キャリアセンター職員の中川千寿さんは、キャリアセンター歴10年、就活支援のベテランだ。
 附属中高から武庫川女子大学短期大学部に進み、母校で就職した自分のことを「超ディープナイバー※だよね!」と紹介する気さくな人柄。学生はそんな中川さんに親近感をもって、就職や進路のことを気軽に相談する。
 「将来を決める時期の学生と、深い関わりをもてるこの仕事は、本当にやりがいがあります。卒業後も直接、間接的に大学を支えてくれて、長いつきあいができるのがうれしい」と笑顔で話す。
 キャリアセンターがリニューアルしたのは2015年。以前は公江記念館にあり、窓が少なく、入り口も奥まっていて分かりにくい場所にあった。リニューアルを機に日下記念マルチメディア館の2階に移転。ガラス張りで見通しがよく、ホテルのラウンジのように優雅なセンターに生まれ変わった。学生が就活等で、どのような場に立っても気後れしないようにと設計されたものだ。
 「武庫女の子は、大人との接し方が上手だなって思います。人懐っこいし、男性とも、張り合うのではなく、相手を立てつつ行動する協調性もある。自信をもっていいんだよ!」
 中川さんの言葉には、進路に悩む学生の話を受けとめ、しっかりと背中を押してくれる力強さと優しさがこもっている。こんなにも頼りがいのあるキャリアセンターが、本学にはある。

※ディープナイバー:武庫川女子大学附属中学、高校から内部進学した学生をディープナイバーと本学学生の一部は呼ぶ。

八野真緒(大日1年)、濱田真波(大情2年)

寮母は寮生の”お母さん”[2017/09/25更新]

淳正寮 寮監補助員
上原知永さん

 50年以上の歴史を持つ淳正寮は武庫川女子大学の5つある学寮の中で、2番目に古い寮だ。さわやかな笑顔が印象的な上原さんは、寮生の”お母さん”として、夫である寮監とともに25年、寮の運営にあたってきた。
 武庫川女子大学を卒業後、附属中高の教員となった。結婚を機に他校の非常勤講師となって間もなく、当時の淳正寮の寮母が体調を崩し、上原さん夫妻に「寮監寮母をお願いできないか」という話が舞い込んだ。「ちょうど、母校の文学専攻科教育専攻(体育)に進学を考えていたときでした」と上原さん。寮母、教員、学生という”三足のわらじ”を履いて、大忙しの日々がしばらく続いた。
 当時の寮の様子を尋ねると「まだ携帯電話も普及しておらず、外泊、帰省についての規則も現在より厳しかったので、ホームシックになる学生が多かったですね。”5分(で交代)厳守”の公衆電話に、長蛇の列が毎日続きました」と言う。娯楽といえば、1台のテレビを丸く囲んでドラマを見ることだった。1部屋の人数は4人(現在は3人)で今より多く、門限も9時(現在は10時)と早く、アルバイトもしにくかった。
 「あのころに比べると、今は格段に生活しやすくなりました」と上原さん。「みんなが住みやすい寮にしよう」という信念を持って取り組んだ上原さん夫妻の努力の成果でもあるだろう。
 食事は当初、大学の食堂から配達していたが、2006年に寮内に厨房ができてからは、調理員さんが作ったものを温かいうちに食べられるようになった。定期的に寮生発案のレシピコンテストも開かれる。浜甲子園キャンパスに隣接し、もともと薬学部の学生が多かった淳正寮だけに、国家試験に向けて寮生全員で励ましあう様子は、今も昔も変わらない。スマホやパソコンが普及した今では、大勢でテレビを囲むことも、夜にお茶会を開くことも少なくなった。でも、上原さんたちに見守られ、たくさんの”家族”と過ごす学生たちは、どんなときでも決して孤独ではないだろう。

八木乃々亜(短英新1年)、原つきみ(短英新1年)、奥陽菜(短日2年)

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