武庫川女子大学
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武庫川学院80周年

学寮物語9――黒丸制度を受け継ぐ堅忍寮(1975〜)[2017/06/22更新]

 「教育寮」を掲げる武庫川学院の学寮には、”寮監”がいる。寮監は教職員があたり、家族と寮内に住み込んで、寮の運営と寮生の指導を担う。寮の歴史が始まって以来、この方針は変わらない。
 現在、5つある学寮のうち、堅忍寮の寮監を勤めるのは教育学科の金子健治准教授。寮母としてサポートするのは妻の正子さん(教育学科 非常勤講師)だ。健治さんの着任に伴い、2012年に寮監寮母を引き受けた。
 大勢の寮生と一つ屋根の下に暮らし、あれこれ気を配る毎日は、さぞ大変では?と尋ねると、「けっこう、楽しいですよ」と、余裕の答えが返ってきた。
 「寮の自治は、選挙で選ばれた寮長、副寮長の3役を中心に寮生が行いますし、生活指導員であるチューター、3人の事務員と常に情報共有しています。大学と連携して学生を見守る体制も心強いですね」と、正子さん。健治さんも「75人の子どもがいる大家族みたいなもの」と気負いがない。
 堅忍寮といえば、伝統の”黒丸制度”を今も守っている寮だ。黒丸は寮則を破ったときにつく。当番をさぼると黒丸2個、点呼に遅れると黒丸1個。黒丸が10個たまると、指定された場所の掃除を課される。さらに、無断外泊、門限遅れは「2週間の外出禁止」。期間中は授業以外、部活動もアルバイトも禁止で、学食やコンビニでの買い食いも許されない。
 「私たちが推進しているのではなく、寮の3役を中心に寮生らがその良さを認めて継承しているんです。黒丸は、周りに迷惑や心配をかけないよう、互いに気持ちよく過ごすためのルール。もし、罰則がなければなし崩しになりますが、この寮では1分の門限遅れも大目に見てもらえない。社会の厳しさを知る良い機会ですよ」と、健治さん。「だれかが外出禁止になると、他の寮生が代わりに買い物をするなど手助けしています。みんな優しいんです」と正子さん。ルールは縛るものではなく、共同生活を円滑にする知恵なのだ。
 寮室は6、7畳の洋室に2人ずつ。半期に一度の部屋替えでは、なるべく異なる学科、異なるクラブ、異なる学年を組み合わせる。定員102人だが、最近は空き室が増え、2017年度は初めて3、4年生に個室があてがわれた。
 「寮生活の良さは、いろいろな人に出会えること。エアコンの設定温度一つとっても、好みは分かれるので、毎日が異文化間コミュニケーションです」「ぶつかり合いも涙もけんかもあるけど、それを乗り越える力がつく。社会に出る前に、これほど良いトレーニングはありません」。学年が上がるにつれ、お姉さん的存在になっていく寮生を見るのが楽しみだという二人は、まさに「お父さん」と「お母さん」。記念日には心づくしのプレゼントを贈られ、退寮の際の送別会では、涙で感謝の言葉をつづられる。「長く一緒にいると、送り出すとき寂しい」(正子さん)、「大学にはない学びが学寮にはある。巣立っていく背中は頼もしいですよ」(健治さん)。
 午後7時。食堂をのぞくと、学生たちがリラックスした様子で夕食を取っていた。寮監夫妻が近づくと、たちまち笑顔の輪ができる。地方出身の学生に安心で安全な居場所を提供し、人間形成に資するようにと整備された武庫川学院の学寮は、今も変わらず、その役割を果たしている。

(米)

学寮物語8――貞和寮(1984〜)33年ぶりの同窓会[2017/06/20更新]

 2017年5月28日。中央キャンパスに近接する貞和寮の集会所に、「第1期生(はじめの仲間たち)同窓会」の横断幕が掲げられた。1984年に開寮した貞和寮一期生の、33年ぶりの里帰りにして初めての同窓会。初代の寮監寮母だった樫塚正一・純子夫妻やチューター、事務員らも駆けつけ、総勢60人が集まった(写真右)。
 企画したのは、岩手県在住の泉舘郁代さん(短大教育学科 1985年卒)。働き盛りに同窓会を企画する余裕はなく、連絡先もわからなくなっていたが、昨年、元寮生2人と貞和寮を訪ね、「ここでみんなで集まりたい」と、1年かけて準備を進めてきた。「10人そろえば」と考えていたが、予想を超える反響があった。
 一期生として入寮したのは、老朽化により閉寮した甲辰寮、浦風寮の2年生と、新入生の計240人。泉舘さんは甲辰寮からの転居組だ。「古くて不便だった甲辰寮に比べ、何もかもが新しく、居心地がよかった。並ばずに風呂に入れるのがうれしかった」と振り返る。当時の日下晃学院長の思い入れで、集会所や各フロアの備品はピンクやブルーに染め分けられ、北欧製のテーブルやいすが配置された。4人部屋の二段ベッドや勉強机は木製で、どっしりと重みがある。
 会場になった集会所は当時、食堂として使われていた。樫塚元寮監は「当時の面影が残っていて、懐かしさもひとしおです。寮則を新しい寮にふさわしく、どう変えるか、ここで毎晩のように議論したのを思い出します。元寮生が良い年の重ね方をしていてうれしいですね。当時の生活指導が少しは役に立ったかな」と目を細めた。
 会場には当時の写真(写真左)やアルバムも用意され、参加者が代わる代わる手に取った。”聖子ちゃんヘア”が時代を表している。寮内を見学して回り、「あのころのままやわ」「エアコンはなかったね」「門限に遅れそうになると、ダッシュで帰ったわ」と、思い出を語り合う姿が、そこここでみられた。
 同窓会の興奮は、終了後も冷めやらず、メールやLINEのやり取りが続いている。33年分の話は当分、尽きそうにない。

(米)

学寮物語7――リケジョが集った誠心寮(1962 〜 1963)[2017/06/19更新]

 2017年度上半期のNHK連続テレビ小説「ひよっこ」は1964年から1970年代が舞台だ。物語の前半、集団就職したヒロインらが暮らす工場併設の女子寮がしばしば登場した。1965(昭和40年)ごろ。6畳程度の和室に地方出身の数人が暮らし、長テーブルを並べた食堂で、まかないの食事を食べる。ちゃんちゃんこを羽織り、洗面器を抱えて銭湯に通う――。そんな光景が、武庫川女子大学の各寮で、同じころ、みられた。
 「誠心寮」もその一つ。1962(昭和37)年、女子大初となる薬学部を開設したとき、一期生の半数近くを占めた地方出身者のために、学院が手当した寮だ。2年で閉寮したため、記録は少ないが、2017年5月、大阪・天王寺に集った元寮生ら(写真)から、詳細を聞くことができた。

 「誠心寮」は薬学部に近い甲子園9番町にあった。高校球児御用達の旅館を学院が一時、借り上げたらしい。木造2階建て。和風庭園に囲まれ、内部はいかにも旅館らしく、長い廊下に沿って、和室が並んだ。各入口は障子やふすまで仕切られただけ。カギもなく、まるで修学旅行のように、部屋同士を自由に行き来できた。
 岡山、広島、山口、和歌山――。「手に職」をつけたくて、あるいは「家業の薬局を継ぐため」に、「好きな勉強がしたくて」、親元を離れ、薬剤師をめざす少女らが約50人、ひしめくように暮らした。4畳半に3人、6畳に4人、3畳に2人、8畳に4、5人ずつ。敷布団は幅80p、文机のサイズも指定があった。それでも4畳半に3人分の布団は敷けず、横長に2枚並べた上に、3人が寝た。
 旅館だけに、厨房や風呂がある分、当時としては恵まれていた。まかないのおじさん、おばさんが、朝夕の食事と昼の弁当を作ってくれた。アルミの弁当箱に必ず入っていたのが「キャベツの千切り」。その上にスルメの佃煮やフライが乗っていた。
 寮監の新田あや先生(当時、生薬学教室助教授)は、薬用植物が専門。寮生らは休日、調査のため山に入る先生に同行し、植物の名前を教えてもらいながら、課題の植物採集に励んだ。人気の海外医療ドラマ「ベン・ケーシー」が見たくて、テレビのある大家さんの部屋に押しかけた。「実験で遅くなると、豚まんを買って帰ったわ」「テスト前には、『ここが出そう』という情報が各部屋に回ってくるので、ありがたかった」「制服があるし、化粧もしないので、洗面台が込み合うこともなかったね」――。そんな思い出も、どことなく、リケジョらしい。
 「ひよっこ」では、工場の倒産に伴い、寮が閉鎖されるが、寝食をともにした仲間は、ヒロインと生涯の友になる。「誠心寮」も学院自前の寮ができると役割を終え、寮生は下宿や他の寮に移ったが、絆は今も途切れない。薬剤師や研究者、主婦としてそれぞれの道を歩みながら、時には子連れで同窓会を開いてきた。会うと学生時代の愛称で呼び合い、女子大生に戻る。

(米)

総務部長らが記者会見!?――共通教育「本を編む」でインタビュー実習[2017/06/16更新]

 2019年度、武庫川学院創立80周年に刊行する「武庫川学院80年史」は、正史である“A面”と、学生目線で作る“B面”の2巻構成を予定している。B面の作成を授業目標に掲げる共通教育科目「本を編む」(担当:河内鏡太郎教授ほか)で5月、学院の今昔をよく知る総務部の後藤章部長と、卒業生でもある附属図書館の川崎安子図書課長をゲストに迎え、履修生26人がインタビューを行った。
 インタビューは記者会見方式で行われた。「武庫女はどう変わったか」という問いに、「受験生が本学との併願先に他の女子大より共学校を選ぶようになった。総合大学としての評価も高まった」と後藤部長。川崎課長は「以前は制服着用が必須で、ブラウスで個性を競った。私が在学中、制服が自由化し、マスコミが取材に押しかけた」と語った。学生の質問の仕方に、河内教授がコメントを差し挟むことも。学生が総務の仕事について質問し、後藤部長が「地域との連携も含まれる」と答えると、「地域の中に興味深い人はいますか、と質問を重ねることで、新たな展開が生まれる」と指摘。「武庫女生の魅力は」の問いに、「堅実」「まじめ」などのキーワードが上がると、「より具体的に聞こう」と、学生にアドバイスした。また、図書館2階の震災コーナーについて質問が出ると、川崎課長が「コーナーを提案した河内先生に」と促し、河内教授が「阪神大震災で亡くなった学生の遺品を展示し、心を寄り添わせる場を作った。風化と戦うのも図書館の役割だ」と答える場面もあった。
 80年史では、女子大であることの意義も大きなテーマとなる。質問はこのテーマにも及び、「女子大であることは個性の一つ。女子大日本一であり続けることは、本学の特色を鮮明にする戦略でもある」(後藤部長)、「まだまだ女性にはガラスの天井がある中で、女子のための大学は必要。女性に特化した図書館づくりができるのも、女子大だからこそ」(川崎課長)と、ゲストの思いを引き出した。
 「本を編む」は2016年度から2019年度の4年間かけ、取材、執筆、編集を学ぶ実践型の授業。武庫川学院にまつわる様々な人の声をつづるインタビュー記事は、80年史の重要なコンテンツだ。履修生らは今後も学内外でインタビューを行い、記事にまとめる。

(米)

学寮物語6――ワンルーム仕様のモダンな成徳寮(1966 〜 1974)[2017/06/15更新]

 1968(昭和43)年1月に撮影された一葉の集合写真がある(写真右)。白いコンクリート造の建物の前で、黒いスーツ姿の女子学生らが年配の女性を囲んでいる。写っているのは、甲子園球場の南側にあった武庫川学院「成徳寮」の寮監と寮生たちだ。奥に見える木造平屋の建物が時代を感じさせる。
 ちょうど、団塊の世代が大学・短大に進学し始めたころ。学寮は1966年に最多の16寮を数え、学生増を見込んで、キャンパス周辺に下宿やアパートも増えていた。成徳寮は、新築の民間アパートを学院が借り受けたものだ。
 写真の寮生らは成徳寮の一期生で、当時、20歳。2017年に古希を迎え、記念の同窓会を6月、有馬温泉で開いた(写真左)。約50年前の写真を見ながら、思い出話に加わった。
 「成徳寮」は3階建てで、各部屋は板の間付きの4畳半。板の間に炊事場とトイレ、布団入れがあったという。まるでワンルームマンションのような仕様だ。「でも、いまどきのワンルームとは大違いよ」「しかも1室に3人だから一人あたりの領分は1・5畳しかないんだから」と、元寮生から注釈がついた。暮らしはまだまだ質素で、風呂もテレビも電話もない。銭湯に通い、電話は隣家の大家さんに取り次いでもらった。
 アパートなので、食堂など、みんなで集まるスペースがなく、屋上でラジオ体操や全体集会をした。朝晩の食事は配達されたものを自室で食べ、昼食は大学の食堂でチケットと引き換えにアルミの弁当を受け取った。白ご飯に、もやしやちくわなど、地味なおかずを添えた弁当は不評で、「フライやハンバーグがつく食堂のランチを食べている学生が羨ましかった」と口をそろえる。食べ盛りのころ。誰かに郷里から食べ物が届くと、おすそ分けを狙って寮生が群がった。夜鳴きそばの屋台が通ると、1階の窓からそおっと手招きし、窓越しに受け取った。
 寮生は北は岩手県、南は鹿児島県まで、全国から集まっていた。教員である寮監のほかに、夜間、短大2部で学び、日中は寮の事務をする住み込みの女性がいた。門限は午後8時半。消灯後も各部屋でおしゃべりして過ごした。朝は、部屋ごとに正座して、寮監の点呼を受けた。寮対抗の運動会やバレーボール大会では、寮旗や寮歌を作って結束した。
 「休みの日は三宮で服を見たり、おいしいものを食べたりしたわ」「ラジオ番組で最初にかかるリクエスト曲を予想しあっては、負けるとおやつ購入資金に貯金したね」
 時代は高度経済成長期の真っただ中。思い出にも、ひときわ明るさが感じられる。

(米)

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